スタッフ紹介

丸山さん(Youtuber)

普段何気なく暇つぶしで見ていたyoutube。自分の上司は既に隠れYouTuberで、「やってみたら?」の一言でやってみようと思ったのが始めるきっかけです。今まで通信系、プログラミング系、営業系のお仕事をしてきたので、「仕事で得た知識をフル活用してやって結果が出せないかどうか?」自分の腕試しみたいな感覚でやってましたが、意外と途中で諦めることなく続いています。やってて思うのが人との繋がり。これがカナリ重要な所で自分1人では全くもって成長できません。色々な人とのコミュニケーションを持つことで自分自身の成長にもなるし、人生の中での良い経験が築き上げれると実感できるのがYouTubeなのかな?と最近感じてます。まだ知識や経験は少ないですが、これからも頑張っていこうと思います。

清水 雅雄

プロフィール:1978年10月20日生まれ。A型。子供のころから体を動かすことが大好きで、剣道・水泳・器械体操などに通う。また大学生の時は、卒業までバイトの傍らスポーツジムに通って体を鍛えることに夢中。そして35歳を目前に始めたのが、ボルダリング。今でも 週2回はジムに登りに行くほどのハマりよう。たまに奥多摩の外岩にも仲間と一緒に登りに行くような、某王手IT企業のグループ会社に勤める変わり者です(笑)  

葉桜陽(フリーライター)

メディアにとって事件や不幸はネタであるというが、いつの間にか、私も同じことをしていた。   文章を書く仕事をしていると、関心のないことを調べる機会が多くある。テーマに詳しくなければ、意見も感想も書きようがないので仕方ない。興味のなかったことも、目を向ければ案外おもしろかったということも多々あるし、なにより、知識により自分の世界が広がるよろこびは快感である。    商品紹介やレポートはもちろん、小説や随筆を書くにも、調べることは尽きない。少子高齢化、過疎化、地球温暖化といった社会問題を扱う場合もまた、半端な知識ではいけないから、よく調べ、自分の考えを持って、ようやく文字にするのだ。 そうして出来上がった記事では、偉そうに政策批判や解決策をいっている。しかしどうだ、ライターとしての仕事を遂げた私は、もうすっかり問題など他人事である。   木の一本も植えないじゃないか。過疎地域の町おこしを手伝うなり、町を記事として取り上げ注目を集めることだってできたはずだ。私は問題解決に貢献するすべを持ちながら、何もしない自分を許すことはできない。   いま、障がい者や高齢者の介護の手が不足している。保育士もそうだ。正直に言えば美味しいネタである。賛否両論飛び交い、政策は穴だらけ、全国民に関係する問題だ。私のような偽善者にとって最高級のカモである。 ほんとうに心から彼等のことを想って文章を綴れる人が一体どれだけいるだろう。   障がい者や高齢者のために私にできることは少ない。私はヘルパーではないからだ。私にできることは、文章にして伝えることである。 障がい者や高齢者の声、日々彼らを支えている人たちのこと。私と同じように問題を認識しながら他人事だと思っている人たちが、介護に関心を持つような言葉を発信することができる。 それが、私のできる介護である。   「健常者と障がい者の共生」 なんとも退屈な言葉である。すこし頭をひねれば、もっと耳心地のよい響きはいくらでも出てくる。 ただ、こんなにも心に響く言葉に触れたのは久しぶりだ。健常者や障がい者と聞くと、どこかに差別の意思を感じてしまうが、この言葉には、それを恐れない力強さが感じられる。私なら、「障がいを持っている方」というふうに柔らかくして言ってしまうだろう。 私は、この言葉を掲げる

山本 亘(第一興商:DAM)、バンド名:満心創痍

学生時代から後先考えず楽しいと思うことをやってきた。高校ではバンドをやり目標もなく流れで音楽の専門学校へ専門を卒業しても長続きせずパチスロで稼ぐ生活へ...そんな生活をしている一人の女性に出会った。だが彼女にはイケメン、色黒、サーファー、公務員という完璧な彼氏がいたのだ...こんな悔しい思いは二度としたくない。そう思い就職活動を始めたのだった。当時27歳。初めての面接で入社し(ラッキー)今に至る。楽しいことをやる。それはサラリーマンになっても変わらず続けていきたい。知り合いの誘いで入ったバンド満心創痍も楽しくやっている。一歩踏み出す勇気、他人に流されず自分の目で判断する。この2つを忘れずこれからも生きていこう。

市川 雅之 (フェニックスブライダル 副支配人)

私がこの仕事を選んだのは、お客様の「人生最高の1日」を創り出すお手伝いが出来ると感じたからです。 学生時代に、結婚式海上でサービススタッフのアルバイトをしていました。そこで、幸せそうに微笑むお客様の姿や、感動で涙を流す親族の方の姿を見て、心にこみ上げるものを感じました。この経験から、仕事を通じて、「人の幸せな1日を創りあげていく」ことができるブライダル事業に携わりたいと思うようになりました。 私が勤めている会社は、ブライダル業界の中でも、海外・国内挙式からハネムーン、ドレス、映像事業など、ブライダルに関するあらゆるサービスを多角的に展開しておられます。ブライダルに対する多様なお客様のご要望に的確に答え、「人生最高の1日」を過ごしていただくお手伝いが出来ると感じております。   ちなみに私は未だ独身ですが・・・(笑)   誰か私を幸せにしてください。  

三宅先生(ガルエージェンシー:探偵、三宅行政書士事務所:行政書士)

三宅行政書士事務所・総合探偵社ガルエージェンシー蒲田代表の三宅一弘地元の武蔵新田商店街で生まれ育ち、高校卒業後自衛隊に入りました。実家は新田神社の斜め前です。最初の勤務地は北海道・千歳の第71戦車連隊。戦車小隊長を皮切りに約10年間、北海道の大地を走り回っていました。この時に今の私の性格である「人の話を最後まで聞かない、すぐ決心する、その決心をすぐ変更する」が、形成されました。そののち、練馬の第1偵察隊へ。ここから、今の私の仕事に通ずる「情報」の世界に入りました。中央情報隊や情報保全隊本部など情報専門部隊、小平学校での情報教官などを経験して退職しました。退職して再就職しなければならないのですが、手に職はなく、困っていました。自分のことを振り返ると、戦車の操縦や射撃は役に立たないし、情報の収集や分析を生かせる仕事はないかと探していました。一つは行政書士の資格の取得でしたが、OBの大先輩からの勧めもあり、探偵事務所を開くことにしました。行政書士は、登録料と書類をそろえて東京都行政書士会に提出するだけでしたが、探偵のほうは東京都公安委員会の許可を得なければなりませんでしたが、どうにか許可を得ることができ、今に至ります。吉野さんとは2年ほど前からのお付き合いで、最初のきっかけは探偵の「人探し」でした。その後、吉野さんとは親しくお付き合いしていただき、今に至ります。行政書士として、任意・成年後見、遺言・相続などお力になれればと思っています。よろしくお願いします。

某信用金庫勤務 木村 慎二

 私は中学生ではラグビーを、高校生ではアメリカンフットボールに所属しており、毎日を部活に励んでいました。大学生となってからは試合を観戦することが多くなり、サッカーJリーグを中心にいろんなスポーツを見に行きました。テレビ画面ももちろんいいですが、試合の臨場感を自分の目で見て、肌で感じる感覚はいつもたまりません。 大学生の時に所属したゼミで、スポーツに興味があった私はスタジアムを研究することになり、あるスタジアムを管理する方のお話を聞ける機会がありました。スタジアムを運営するのはもちろん地域の方々と連携して活動すること、そこにはヒト、モノ、カネ、そして時間がとても必要であることを知りました。普段私が見ているスポーツの裏では、多くの準備を重ねて実現しているということを知り、衝撃を受けたのを今でも覚えています。 その影響もあり、私は中でも「カネ」について深く学びたいと考え金融業界に飛び込みました。まだまだ未熟ですが、これから精進して行きたいと思っています。

日本体育大学荏原高等学校 生徒会担当 田中恭平

都内の高校を卒業し、その後宮城県の大学に4年間通い、現在高校教師をしております。ちなみに3児の父親です。高校教師を夢見たのは中学生の頃でした。 ドラマの『GTO』を観て、漠然と先生っていいなと思いました。そして高校の頃、試験前に友人に勉強を教えているとき、「わかってもらえるって嬉しい」と思い、教員を決心をしました。また、道端でタバコを吸って、ポイ捨てをする中年男性を目撃し「どんな教育を受けたんだろうか。俺が先生なら絶対にこんな大人にさせない」と強く思いました。子どもに道徳を教えることができればその子が大人になったとき、きっと社会に必要な人間になってくれると強く思いました。「俺が関わる子どもには必ず伝えたい、そうすれば最終的には日本まで良くなるはずだ!」なんて壮大なことも考えました。「夢は大きく大胆に」と高校生のとき友人に言われ、今はそれが信念にもなっています。 現在、高校で生 徒会担当をして8年になりますが、私自身も中学・高校と生徒会活動をしてきました。ボランティア活動も多々行い、それが今では大きな糧になっています。私が関わる生徒会執行部の子やクラス・部活動の子どもたちには、障がい者・高齢者などと関わる時間もつくり、社会に対する視野を広げてほしいと思っています。子どもたちの可能性は無限大です。少しでもその可能性を広げられたら、少しでも開花させる手助けができたらと思います。 締め方がわからないので最後に・・・好きな曲は、「関白宣言(さだまさし)」、「私鉄沿線(野口五郎)」です。     日本体育大学荏原高等学校 生徒会担当 田中恭平

筒井寛孝(株式会社ケアズファクトリー)

代表取締役    平成8年新潟県上越市から上京しました。   新潟県では建設業など色々な仕事を経験しました。   上京をしてその月に100席ほどの、自由が丘の飲食店でアルバイトとして勤務しました。   3ヵ月後には社員として、6ヵ月後には従業員が20人いる店舗の店長に就任しました。   店長になり2年経過した時に、交通事故を起こして意識不明の重体になり、一年以上も仕事復帰できない体になりました。 その時に色々な事を思い、経験をしました。   やっと仕事に復帰して間もなく、母が癌で入院しました。 持病を持っていて、手術ができなくて寝たきりになるかもしれないとお医者様から言われました。 その時に母を上京させる為に色々な老人ホームや施設を見学に行きました。   金額も高いし信用出来ないし、なかなか良い所がなかったです。 悩んでいる時に母の手術が成功して、今は元気に過ごしてくれています。   母の事や入院経験から、身近な方や今までお世話になった方達の、親の介護のお手伝いがしたいと思う気持ちが強くなりました。   29歳時に店舗移転と同時に個人営業として、店舗を買い取り独立行いました。   次の年に法人設立し、weeds株式会社設立し、業務拡大を目指していました。 入院の経験や母への思いから介護業界に参入しました。   当初は何も分からないので、訪問入浴のオペレーターとして一年勤務しました。   その時に在宅介護の大事さなどを知り、訪問介護に介護の原点を感じ、ヘルパーの免許を取り、ケアズファクトリー蒲田のヘルパーとして勤務しました。   その時に色々な方と出会い、これからの介護のあり方や思いを知る事ができました。   これからの世代で必要不可欠な仕事になり、高齢者が住み慣れた街で幸せに過ごしていく、お手伝いをしたいと思い介護事業設立を決めました。   まずは自分自身が事故の時に、身体障害者になりそうになった経験や思いから、障害事業を拡大しました。   障害をもっている方と高齢者の共生社会を目指しています。   高齢者や障害者の方々が幸せに過ごすために、飲食店と介護業とのつながりを何かしら出来ないかと思い続け
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