私が思う事(吉野)

2017年11月14日 08:07

お店をやっていると、幅広い年齢層のお客様と接する為、毎日いろんな話をする。

今日は最近話題の「座間市の死体遺体事件」について。

テレビや新聞などの報道では「何ということでしょう、怖い事件ですね」というスタンスなのだが、ツイッターやSNSなど個人レベルでは「死ぬことが出来て良かったじゃないか?」「本当に殺人なのか?」という本音も出ているらしい。

 

事件が明らかになるにつれて、「容疑者が自殺死亡者を集めていたのは、殺人をするための単なるツールであった」とわかっていき、事件が陳腐化してきてた。

 

もし仮に犯人が「慈善事業のつもりだったとしたら?」殺人の罪まで背負ってくれる有難い存在になる。

日本は誰でも安楽死できる法律はない。

「人には自殺する権利があるのではないか?」

つまり、今回の事件の犯人とは違うが、もし善意のつもりで自殺代行をする人がいたら、その人を糾弾できるのか?

「そもそも人間は自殺する権利があるんじゃないか?」という解決のない話。

 

「自殺する権利」について考えてみる。

「権利」と言われれば「あるような」気がする。

自殺する権利がないという人→「誰かが悲しむから」と答える人がいる。

これは成立しない。

何故なら「悲しむ人なんて誰一人いない」と答える人は必ず存在するから。

 

例)

無人島に住んでいます。たまたま生き残っていた犬、猫を「楽しみ(暇潰し)の為に殺せますか?」

*「殺してもいいと思うか?」「食糧の為」ではない。

 

そうすると、ほとんどの人が「いいえ」と答える。

何故なら、多くの人に取っては楽しくないはず。

無人島なんだから自分以外に人間はいない。

ということは?

もし自分がそんなことをしたとしても、悲しむ人は存在はいないし、誰の迷惑にもならないはずなのに。

この「自殺は何が悪いんだ?」については、「自分を殺すだけなんだから、誰の迷惑にもならない。誰が死んでも悲しむ人はいないから、誰かが悲しむわけでもないんだろ?」ということで、自分の命だったら平気で殺せると言う人が多いんだろう。

だからといって、犬とか猫の命を奪うことには、抵抗があるのが当たり前。

 

魚は食うために殺せても、犬や猫を楽しみの為に殺せないと言うのが人間の不思議なところ。

人間というのは「生まれてそのまますくすく育てば人間になれる」というものではなく、人間とは「努力してなる」もの。

ただ、生きる為に楽して落ちていくのは「外道」。

言い方悪いけど。

自殺というのは外道の道。

「無人島にいる犬や猫を殺しても誰の迷惑にもならない。だから、殺す権利はある!」って言われたら、その通りなんだけど、無人島で自分の楽しみの為に犬や猫を殺した人の話を聞いたら?→「あいつは酷い奴だ」って思うでしょ?

この「酷い奴だ」って感想は実は「矛盾」している。

この論理的でない感情が「人間的なもの」であって、外道と自分達を分ける境界線になる。

ところが、生活が苦しくて世間的に批判される仕事(外道の仕事)をしている人達もいる。

その批判される仕事をしている親に養われる子供がいるのは事実だから、外道の存在自体や自分達が外道になることを完全に否定することが出来ない。

だからと言って肯定も出来ないところが面白い。

 

今回の事件を考える上で重要なのは「自殺するのがいいか悪いか?」ではなく「自殺を肯定するのがいいか悪いか?」という問題ってこと。

つまり、個人の問題ではなく「社会問題」

こういう社会問題に対して「俺は構わない」と言うことは全く「意味がない」こと。

 

例)

「身障者を差別してはいけない」とか「目が見えない人をめくらと言ってはいけない」ということに対して、目が見えない人の一人が「俺はめくらと言われても平気だ!だから、みんなも言っていい」と言ったとしても成立しない。

 

何故かというと

社会問題を個人問題にすり替えてはいけないから。

その瞬間に理屈は繋がっているけど、気持ちは全く繋がらなくなってしまう。

構造がズレてしまう。

だから、今回の事件についてテレビで否定するのは当たり前。それは世の中が正しく機能している証拠でもある。

自殺を肯定するような発言は社会的ではないから、テレビで否定するのは当たり前。

なので、「自殺する権利があると思うか?」と言われたら、「それはその通りなんだろうけど、それを表で言うのは大人げない(笑)」という話。

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