私が思う事(吉野)教育編5

2017年11月21日 22:22

市民教育の本質は何か?
「個性」と「競争」
これをいいものだと言う風に否定している。
今は無意識のうちにこれが教育のゴールだと考えている。
競争と言うのは違うかもしれないけど、これを自由競争と言うか好きなように競わせる。身分の差とか関係なく全員に同じものをさせるのではなくて、ちゃんと優れた者には、より優れた競争を与える。そして何が優れているのかをいろんな個性と言うのを認めると言う概念。
ほとんどの人が「教育と言うのはこうあるべきだ」→「べき論」にも合致する。
これが今の社会に実は合わなくなってきている。
個性と競争力を子供に与えるのが市民教育なんだけど、「偉い人はもういない」という考え方

・民の時代の偉い人→王様
・国民教育の時代に偉い人→エリート
・市民教育の時代の偉い人→もういない
つまり、自分達が尊敬したり、目標に出来る人間といのは、あまりに個性を重視してる結果、多様性がなくてバラバラになってしまって、自分の親すらもその対象であるといえない。

何が偉いのかわからない。
「偉い人はもういない」
なので、幸せになる方法は?
・国民教育の時代→偉い人の言う通りにしてれば幸せ
一生懸命働いてお金さえ稼げば何とかなった。
・市民教育の時代→もう誰も自分の幸せの方法を決めてくれない。
一生懸命働いてお金を稼いで、お金を自分の好きなように使って幸せにならなければならない。
つまり、個性というものをいろんな人が発揮しないと、発揮の仕方にも競争原理が働いてしまう。
これが市民教育の特徴であり限界。

幸せになる方法
自分で見付けて競争に勝てという社会
・個性というのは、他社との差別化であり、独自化である。
・競争というのは、個性を活かした戦略で戦うこと

豊かな社会が実現して、誰もが満足出来なくなったので市民教育が生まれた。
誰もが政治家になれるし、誰もが社長になれる社会の特徴。
国民教育で社長になる人間・政治家になる人間はエリートだから、特に偉い人しかなれない。勉強ができたり、家が金持ちだったり、自分の才覚で凄いお金を稼いだりした人しかエリートになれない。
市民教育では個性が豊かである。
競争に勝ちさえすれば、いくらでも社会的階層が上に行ける→乱戦状態になってしまった。
市民教育が成立していた時代(20世紀の後半)は、エリートとという考え方がまだ生きていたので、個性とか競争力を使って個人に上昇思考があった。そうすると市民教育というのは、まだ成立するんだけど、次の時代になってくると、個人の競争心が失われてしまっているという段階に入ってくる。
つまり、「民」しつけが必要な人達から国民教育→市民教育の次の時代
新しい教育とは?
大前提として、自分達の社会には教育というものが本来あまりなかった。
親は子供を好きにする権利があって、それを売り買いすることも出来た。
子供というのは「家庭内資源」であった。そういう無駄が許されなくなった。
他所の国に対抗して勝つには、それぞれの子供達が持てる能力全てを人材として活用化したり、働いたり兵隊になったりして、国民が総力戦として、他所の国と軍事的にも経済的にも競争しなくてはいけなくなった。
その結果、自分達の社会は民から国民になり、これが黒船が来て以降、日本が諸外国列強にのまれない為にとった戦略。
他のアジアの国々が次々と併合されて奴隷待遇、植民地政策されてるのに対して日本人も一刻も早く列強に追い付いて、国民の生産力をあげよ、兵隊を強くしろよと考えた。
その結果、国民教育というものが生まれて一時的に服従心と団結心を強く持てという教育。数十年続いた。その結果、日本の産業率は凄く上がった。その結果、豊かになり、豊かになるということは?
多様性を認めることだから。
豊かさがバラバラになって、それぞれの人が個性と競争を求めるようになった。
生まれつきでなくて、勉強だけでなくて、いろんな方向で競争させて、その考え方は自分の個性を認めてくれて、市民教育が出来るようになった。市民教育になった瞬間に、民の時代は王様の言うことをひたすら聞いてれば良かった。国民の時代は偉い政治家の言うことを聞いてれば良くて、政治家に文句があれば選挙でひっくり返せば良い。ところが、市民の時代になったら、偉い人は何処にもいなくて、誰も偉い人の役割を受けてくれない。
その結果、政治家もすぐに本音で話したり、一生懸命市民に語りかけたりする。自分達市民も民の時代のようにお上に対して嘆いたり、もしくは服従したり、腹の底で舌を出したりするのではなく、国民のように一方的な単純な善悪を押し付けて、選挙の結果で政治家をひっくり返そうとするのではなくて、個々の政治家に対して、自分の意見を言ったり、考え方を言ったりするようになってしまった。どんどんどんどん統治体制がマキャベリが言った単純で効率的なものから、複雑で効率の悪いものに落ちてきている。
市民教育の「個性」と「競争」を100%目指した結果、マキャベリ的に言えば?
政治的に混乱している。
単純な君主が一人決めて、そいつがやった事・言った事はそれでいいじゃないか?というようなのではなく、次の段階のより有能な奴が政治家になって、この世の中で起こっている諸問題に対して責任を取るべきである。彼らがミスをしたら、彼らは市民に対して説明する義務がある。市民は政治家が言ってる説明を対して納得したり投票したり、政治運動をしなければならない。
とんでもなく複雑なところまで下りてきてしまった。

新しい教育の姿
「プラタニティ教育」
プラタニティというのは、フランス革命の原則の自由・平等・博愛と翻訳される。
*本来ならプラタニティ。自由と平等とプラタニティ。
プラタニティというのは、「同胞愛」とか「同族愛」と翻訳される。
同じ立場の人間が直接の民族・家族的な者ではなく、「同じ考え方をしている人間同士が連帯しよう」という考え方。
アメリカの奇宿舎というものがプラタニティというのではないか?
日本ではなかなか正しい翻訳はないが、無理矢理言うならば、自由・平等・友愛
これが、国民教育→市民教育→?「友愛」になるだろうと考えられる。
こういうものが、社会の批判というか、統一を求めて同じ事を口にさせるという押し付け教育から、個性と競争を認める社会から、友愛になるというのはまるで綺麗事のように聞こえるが、実際は全てが厳しい部分もある。
何でそう思うのか?と言うと
教育の現場で20歳から25歳の間で何が起こっているのか?を見てみると。

 

つづく








 

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