私が思う事(吉野)教育編2

2017年11月18日 22:18

江戸から明治にかけて。
一番大きく違いはは産業革命が導入されたこと。
それまで身分が決まっていて(士農工商)、侍はずっと侍。農民はずっと農民をやっていればいい世の中ではなくなった。各々が勉強して上の階級に上がらなければいけない。
士農工商→「布告強兵策」
「殖産」たくさんの労働人口が必要になった。
これまで農民として民として、ただ単にボンヤリと生きてきた良かった庶民と言うのは明治時代になった瞬間に民から国民になった。民を国民に変換させる為に教育が必要だった。
「民(タミ)」江戸→明治「国民」になった!
日本人の歩き方もこの時に変わった!
「ナンバ走り」という走り方をしていた。
日本人は元々、この走り方をしていた。

ナンバ走り・・・右手と右足、左手と左足を同時に前に出す歩き方
腰に刀をぶら下げていると、右手と左足、左手と右足を前に出して普通の歩き方をしていると、どんどん刀の位置がズレてきて、和服の前もはだけてくる。
何で今は浴衣・着物を着て歩くと着崩れが起こりやすいのか?
「昔の人はきちんと着ていた。今の人達は・・・だらしない」と言う人がいるが、それは違う。和服と言う構造はナンバという歩き方を前提としている。必ず右足と左足でと同じ側が前に出るという歩き方をしてると和服というのは着崩れしない。和服の構造の問題。
それは狭い所で(江戸の人口は100万人、スクランブル交差点のイメージ)人口を保つ為にみんなが人間がすれ違って暮らして素早く歩くには、ナンバの方が歩きやすかった。
ところが、軍隊が導入されるようになって、重い背嚢(はいのう)というリュックサックみたいな物を背負って銃を持って走る。右手と右足が両方前に出る歩き方だと歩きにくい。
*背嚢・・・ 皮や布で作った、背中に負う方形(四角形)のかばん。軍人などが用いる。

右手と左足、左手と右足を前に出す歩き方の方が歩きやすい→要は「兵隊を作る為」に日本人の歩き方を変えられた。
その為に導入されたのが「運動会」と「ラジオ体操」
*ラジオ体操はソ連の真似。昭和3年にNHKとかんぽ生命が広げた。国民を長生きさせないと保険会社が潰れてしまうから。思惑が一致。
それと国民全体を動かすのに役立つと思ったから→国家は生きている人間を徹底的に管理するため。

体育の授業や運動会で「行進」をするでしょ?
これは山縣有朋(やまがた ありとも)が明治時代になって始めた日本人の歩き方を根本的に変える方法。
*山縣有朋・・・長州藩の武士。高杉晋作が作った奇兵隊に入っていた。内閣総理大臣。 伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物。

それのお蔭で日本人は西洋人のように「ナンバ歩き」が出来なくなってしまった。「民から国民への改造手術」
例えば、朝8時30分や9時になったら学校へ行くというのは?
僕らが当たり前のように考えている習慣も「時間通りに動く」という民から国民への強制。
先生の授業が始まったら、45分~1時間座ってじっと聞かなければいけないという考え方も民から国民への教育の途中で成し遂げられた。


 

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